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「さうだね。まさか医者の家に古障子の玄関といふわけにもいくまいね」
宿は大きい家で、ほかにも五、六組の逗留客があった。根津は身体に痛み所があるので下座敷の一間を借りていた。着いて四日目の晩である。入梅に近いこの頃の空は曇り勝がちで、きょうも宵から小雨が降っていた。夜も四つ(午後十時)に近くなって、根津もそろそろ寝床に這入ろうかと思っていると、何か奥の方がさわがしいので、伊助に様子を見せに遣ると、やがて彼は帰って来て、こんなことを報告した。
生返事をしてそのまゝ登つて行く。
「さうですが、それはさうにちがひないが――」
「半之丞の子は?」
それは房一がこれまでに漠然と想像していた練吉とはかなりにちがふものだつた。以前見かけた練吉の学生服姿、その良家の子弟らしいつんとした近づき難さは、どこかにのこつていたが、或る柔い、善良さが今の練吉からは感じられた。
老父の道平が卒倒した今はちやうど房一の忙しい時期だつた。と云ふのは、彼の患者の大部分を占めている農夫達は農閑期に入ると、それまでがまんをしていたために急に病気になつたり、ぶり返したりするのであつた。道平はここ三四日の間が危険期だつた。房一は殆どつき切りで、間には何度も家の方へ来る患者の診察にも帰らねばならなかつた。
「眼が潰つぶれちまふ――ねえ、先生」
――彼は医者である。免状もある。開業もした。患者もどうにかつきはじめた。職業的には立派に医者としての条件を具へつゝある。だが、河原町ではそんなことは通用しないのだ。何か別のものが、職業上の条件以上のものがここでは必要だつた。
房一は昨夜の使ひの者から聞いていたので、目指す相沢の家はすぐ判つた。部落に入つて間もなく、路傍に空地があつて古い酒樽が二つ三つころがつていたり、恐らく雨時にできたのだらう荷馬車の轍わだちの跡が深くいくつも切れこんだまゝ固まつていた。空地の奥には下部を石垣で築いた大きい酒庫の壁が上方に四角な切窓を並べて立つていた。空地からは爪先上りの地面がそのまゝ酒庫の横から屋敷の中につゞいて、その突きあたりには大きな材木を使つた酒造家らしい店間口が見えた。住居すまひはそこから右手へかけての棟つゞきであるらしく、前面からは塀と樹木とのためによく見えないが、この地方特有の赤黒い釉薬うはぐすりをかけた屋根瓦のぎつしりした厚みがその上に覗いていた。
聞き慣れない太味のある声が立つた。直造は立ち上りかけた膝を又ついて、ふり返つた。彼は席のまん中近くへ進み出ていたので、声の起つたずつと下席の方はよほど努力して身体を捻ぢ向けねばならなかつた。長時間の主人役で疲労して、いくらかうすい曇りのできた直造の眼は、やうやく声の主である高間房一の赤黒い、円つこい、だが明かに普通でない硬は張つた顔と、その上にきらめく強い眼の、色とを見た。瞬間、直造の端正さは崩れ、一種の狼狽と不安が走つた。
今泉はうつむき気味に、すぐ前に坐つている庄谷の背中を見つめていた。するとその肩に一本の糸屑がくつついているのに気づいた。彼はそつと手を伸してつまみ上げた。庄谷はうしろをふり向いた。その白味の多い小さい目で無意味ににやりとした。そして又元の眠つたやうな無表情にかへつた。
「あれは何でせう、知吉さんといふ人は悪く云ふと娘をひつかけて相沢の家に入りこんだやうなもんでせう」